
朝8時05分。
地下鉄の乗り換えホームで、次の電車を待っていた。
前の電車には間に合わなかった。
柱に背を預けて、スマートフォンのニュースフィードをスクロールしている。記事の内容は頭に入ってこない。イヤホンを両耳に刺しているが、何も流していない。それでも外していないのは、話しかけられたくないからではなく、ただ習慣だからだった。
ここ数日、頭の片隅に引っかかっているものがある。
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昨日の夕方、同じフロアに常駐している別の会社のエンジニアが話しかけてきた。
「うち、来月からフルリモートも選べることになりました」
軽い口調だった。その場では「いいですね」と相槌を打って、そのまま会話は別の話題へ流れた。
今朝になって、なぜかその会話が少し引っかかっている。
「選べることになった」という言葉の構造が、朝の通勤中に浮かんだ。
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月曜の朝、客先の定例会議に向かう途中、自社の後輩からメッセージが来た。
「今日リモートで作業することになりました」
同じ案件に関わるメンバーだ。後輩の所属会社は週2日リモート可という方針を持っている。彼の会社は「客先のルールに従う」。フル出社が前提になっている。
どう返せばいいかわからず、「了解、議事録よろしく」とだけ打った。
エレベーターを待ちながら、フィードをスクロールしていると一つの見出しが目に入った。
「Amazon、週5日出社を義務化——社員の73%が転職を検討」
彼はその記事を開かなかった。
でも、数字だけが頭に残った。73%。
その夜、帰宅してから記事を開いた。
2024年9月、AmazonがCEO Andy Jassy主導で週5日フル出社を義務化すると発表した直後、匿名職場SNS「Blind」が調査した。対象はAmazon社員。73%が転職を検討していると回答した。さらに91%がRTO義務化に不満を感じていると答えた(CNBC, 2024年9月26日)。
350,000人が対象の施策だ。
彼はしばらくその数字を眺めた。
Amazonで働く人たちが転職を考えた理由は、通勤が嫌いだったからではないかもしれない、と思った。記事にはそこまで書いていなかった。でも、73%という数字は「出社そのもの」への反発というより、何か別のことへの反応に見えた。
別のデータを探した。
米国ITコンサルティング企業ScienceSoftが2025年3月に発表した調査では、2026年末までに世界のソフトウェアエンジニアの80%はフルまたはハイブリッドリモートで働くという予測が示されている。フルオフィス回帰はわずか20%(BusinessWire, 2025年3月26日)。Stack Overflow Developer Survey 2024(65,000人以上・185カ国)でも、ハイブリッド勤務42%・フルリモート38%・フルオフィス20%と報告されている。
つまり、世界のエンジニアの80%は、今この瞬間、毎日オフィスに行っていない。
日本でも、Findy 2024年の調査ではIT/Webエンジニアの51.3%がフルリモート勤務。そして71.3%が「出社頻度が増えたら転職を検討する」と答えている。
彼は画面を閉じた。
数字の羅列ではなく、構造が少し見えた気がした。
Amazonの社員が怒ったのは「毎日出社すること」ではなかったのかもしれない。
毎日出社するかどうかを、自分で選べなくなったことに対して、あれほど多くの人が動いた。
73%。
彼が6年間続けてきた客先常駐のフル出社は、なぜそうなっているのか。
客先の方針に従う、という自社の方針に従う。
「選んだ」という感覚がどこかにあったか。
ない、とはっきりわかった。
ただ、最初からそういうものだと思っていた。それが「選んでいない」ことなのか、それとも「選ばなかった」だけなのか、彼には区別がつかなかった。

翌朝、また同じ地下鉄のホームで次の電車を待った。
前日と同じ柱。同じイヤホン。同じスクロール。
フィードに並ぶ記事の見出しが流れていく。
彼が毎日ここに来ているのは、選んだ結果なのか。
問いが頭の中で静かに浮かんで、Slackの通知音が鳴った。
出社を疑うことも、リモートを望むことも、なかった。
——そもそも、その選択肢が視界に入っていなかった。
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