海外エンジニアは年収交渉を「戦い」とは思っていない

彼がその記事を読んだのは、仕事終わりの深夜だった。

特に目的はなかった。いつものようにHacker Newsを流し見していて、たまたまタイトルが目に入っただけだ。

How I negotiated a $300,000 job offer in Silicon Valley.

3,000万円。日本円に換算してみてから、少し笑ってしまった。

自分とは別の世界の話だと思って、それでも読み始めた。

会話が、そのまま書いてある

その記事で最初に驚いたのは、内容ではなかった。

文体だった。

Google、Facebook、Amazon、Apple、LinkedIn、Yelp。6社から同時にオファーをもらったエンジニアが、各社の採用担当者と実際に交わした会話を、そのまま書き起こしていた。

採用担当:「ベースが12万ドル、RSUが4年で15万ドル、サインオンが1万ドルのパッケージを考えています。どう思いますか?」

著者:「エクイティの部分は柔軟性がありますか?会社に長くいたいので、どこに行くにしてもエクイティは重視しています。ベースは12万ドルで問題ないですが、もう少し大きいエクイティパッケージがあればサインしたいと思っています」

怒っていない。脅していない。ただ、希望を伝えている。

彼はその会話を3回読んだ。そして気づいた。

これは「交渉」というよりも、ただの「会話」だということに。

5年間、ゲームのルールを知らなかった

Brian Jenneyというエンジニアがいる。転職のたびに年収を上げ続け、現在年収は20万ドル(基本給だけ)になったという人物だ。彼は自分の年収の推移をこう書いている。

  • 1社目:6万ドル(交渉なし)
  • 2社目:8万ドル
  • 3社目:10万5,000ドル(競合オファーを使って交渉)
  • 4社目:16万5,000ドル(18万ドルを希望して上げてもらった)
  • 現在:20万ドル(オファーの最高バンドまで押し上げた)

「ここに書いたのは基本給だけで、株式やボーナスは含んでいない」と彼は注記している。

そして、こう続けている。

「もしオファーが来たなら、彼らはすでに決めている——あなたが欲しいと。採用プロセスに何週間もかけて、ようやく出した結論だ。そのプロセスをやり直すのはコストがかかる。彼らはあなたに個人のお金を払っているわけではない。会社の予算を使っているんだ」

彼はその夜、自分が5年間、このゲームのルールを知らなかったことに気づいた。

知らなかっただけだ。

能力が足りなかったわけでも、チャンスがなかったわけでもない。ただ、そういうものだと思っていた。

5分が、10年で1,500万円になる

Patrick McKenzieというエンジニアが2012年に書いた文章がある。もう10年以上前のものなのに、今も読まれ続けている。冒頭にこうある。

「あなたの給与交渉は——普通5分足らずで終わる——あなたの報酬に異常なほど大きな影響を与える」

彼が示した計算がある。年収が5,000ドル(75万円)上がると、10年間でどのくらい差が生まれるか。

毎年の昇給率に乗算される。次の転職の基準値になる。退職金の計算にも影響する。その複利効果を計算すると、税引き後で100,000ドル近い差が生まれる。

5分の会話が、10年後に1,500万円の差を生む。

Stack Overflow Developer Surveyによれば、日本のソフトウェアエンジニアの中央値年収は約510万円だ。同じ調査でアメリカは約1,600万円、ドイツは約900万円になる。

この差が技術力の差だとは、彼には思えなかった。

日本にいると、この話が届かない

その夜読んだ3本の記事は、すべて英語で書かれていた。

日本語で「年収交渉」と検索すると出てくるのは、「交渉するときの言い方」とか「失敗しない伝え方」といった記事ばかりだ。前提として、交渉すること自体がリスクであるかのように書かれている。

海外では違う。交渉しないことがリスクだ。

Brian が転職のたびに年収を上げられたのは、常に「自分の値段を知っていたから」だ。市場で自分がいくらで評価されるのかを、転職活動を通じて把握し続けた。知っていたから、要求できた。要求したから、動いた。

彼はその夜、自分が5年間やってきた仕事の価値を、実は一度も外部に問いかけたことがないことに気づいた。


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